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◆『ロング・グッドバイ』  R・チャンドラー

ロング・グッドバイ




新大阪駅の構内の書店でこの本を発見したときは驚いた
訳者が村上春樹だったからだ

『The Long Good-by』は、先に清水俊二訳の『長いお別れ』が
ありハードボイルド小説の傑作として名高い
いや、推理小説とか探偵小説とかそんなちっぽけな枠に
入りきらない名作だ
清水氏の訳は、映画の台詞の翻訳などを手がけていたことも
多分に影響しているのだろう、
口語的なリズムを大切にしてチャンドラーの描く
フィリップ・マーローを実に生き生きと日本語化したものである

ぼくは一読してその文章のタッチの創り出す雰囲気に魅せられてしまった
『長いお別れ』を読んだときなどは友達を誘いカクテルバーに行っては
ギムレットを飲み歩いたものだ

放浪時代、サンフランシスコで「マーロー・マップ」なるものを
手に入れて小説の舞台になった場所を訪ねてまわった
ビクターのモデルになった店を訪ねてそこでギムレットを飲み
テリー・レノックスを偲んだ
ぼくはそれほどにフィリップ・マーローの生き方に影響された気がする
建築家の道を選んだのも或いはそんなことかもしれない

オフィスに座って来ない依頼者を待っている
一匹狼だ
飛び切り美人の秘書はいないがバーボンならいつもある
損をしても筋は曲げない(つもり)
探偵と建築家、どこか似ていないか

それはともかく、フィリップ・マーローを主人公とする長編は7編ある
いずれも日本語に翻訳されていて貪るように読んだけど
そのうち『高い窓』が田中小実昌訳、『大いなる眠り』が双葉十三郎訳で
清水訳とのタッチの違いに随分と困った記憶がある
日本語のフィリップ・マーローは清水訳に尽きるとさえ思った
あのタッチと雰囲気は清水訳の5編でしか味わえないから何度も読み返した
それほどの名訳だけど、そこまで日本語としてこなれているということは、
おそらく映画的な感覚でかなりの意訳や省略などをしているのではないか、
とも思った

それで、一度原文を読んでみよう思い立ち
“Farewell My Lovely”(『さらば愛しき人よ』)を買ったのだけどこれが驚いた
ぼくがハマったのはチャンドラーではなく清水マーローではないか
という危惧は全くなく
英語と日本語の差を感じさせない見事なフィット感があったのだ
対訳的に読んだわけではないので訳の正確度とか省略については
意識しなかったが、実際そのようなことは結構あったみたいで、
それが今日村上春樹氏によって新たに翻訳される理由にもなっている

だから、新大阪の書店でこの本を手にしたときは
「やはり高く評価されている」という喜びと、
「それにしても何故あのベストセラー作家が」という疑問と、彼によって
「フィリップ・マーローが別人にされているのではないか」という不安が
入り混じった驚きだったのだ

暫くは積読状態だった
ある日、以前リフォームをした京都の施主から連絡があった
一杯やりませんか、という誘いとギムレットに関する新聞記事についてだった
実はこの施主、年若いのにぼくに本当のギムレットを教えてくれた
というか、本当のギムレットを呑ませる店を紹介してくれた“恩人”であった
本当のギムレットとは、ローズ社のライム・ジュース・コーディアルを使った
カクテルをいう(かの伊丹十三も『ヨーロッパ退屈日記』の中で書いている)

それでまたスイッチが入り、ぼくはこの本を一気に読んだ

内容についてあれこれいうつもりはない
不安に思った違和感は意外な程になく
自然にぼくの知っているフィリップ・マーローが活字の上を歩き始めた
また、村上氏は巻末の訳者あとがきとして
「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」を書かれているが
この内容がまたすばらしい
ぼくは、短い文章とその積み重ねで事物を的確に表現し
詩情のある世界を構築するチャンドラーの上手さに感服していたけど、
その深みが同様の手法を使う他者と何故これほどまでに違うのかについては
思い至らなかった
それを氏によって教えられた


同じく放浪時代ロンドンにいたとき、
それまで持ち歩いていた日本語の本を捨てて
PICADOL社刊の“THE CHANDLER COLLECTION Volume1”を買って
バックパックに詰め込んだ
その後アメリカで“Volume 2”を買って持ち歩いた
水に濡れたり擦り切れたりぼろぼろになりながら
最後までぼくの旅に付き合ってくれたそれらの本は
今も手元にあるがその表紙のデザインがいい

探偵小説は言わば読み捨てみたいなところがあって、
ペーパーバックの表紙も何処かあざとく雑駁なデザインが多いものだが、
それがチャンドラーの描く世界とはかけ離れていてぼくは嫌だった
でも、この本はそのギャップを感じさせないデザインになっていると思う
村上氏も訳者あとがきで触れているが、
チャンドラーはアメリカでは文学者としての評価は高くなく
寧ろイギリスでの評価が高かったらしいが、
表紙のデザインにもそれが現れているような気がする

同じ文章の中で村上氏は、KNOPF社版を使っての今回の翻訳において
問題になった箇所(誤植や校正ミス)のひとつとして第36章の
They have hanged themselves in bars and gassed themselves in garages.
を掲げ、文章の流れから考えて
「“bars”(バー)ではなく”barn”(納屋)の誤植ではないかと思い
熟考の末「納屋」と訳した(清水氏も同様の訳を選択した)」
と書かれているが、
このPICADOL社版(1983年)で件の文章をチェックしてみると
ちゃんと”barn”(納屋)になっているではないか
アメリカとイギリスの差かなあ
ちょっと考えさせられてしまった

また、ギムレットが飲みたくなった
いや、ギムレットにはまだ早いかな

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