cafe ICARUS

presented by susumulab

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28 11 07

シエナの街並み

Piazza del Campoは一日中でも呆けていたい場所だ
その広場の前の役所の塔の上で描いた風景 

個人的には安物の色鉛筆で出せたイタリア瓦の色合いが気に入っている
何するでもなく街の中をウロウロしては色んな方向から広場に戻る
それだけでも何故か幸せが込み上げ自然と笑えてくる
日本にこんな場所あるかなぁ

posted susumu
09:44 AM | comment(2)

26 11 07

『妄想力』 金沢 創

妄想力   ヒトの心とサルの心はどう違うのか


「妄想」という、聊か危険な語感とは裏腹にこの想念が人間に寄与する部分は大きい
寧ろ、「妄想」こそが人間を他の生き物と区別しているのではないか
そんな思いがあってこの本を手に取った、、、、、

著者は「妄想力」という造語を提示することで
妄想のもつ力や可能性を様々な例を通して説明する
それ自体は読み易いし面白い
話の通じない恋愛や鏡の話とか人の気持ちの分かるネコの話とか
同時に、分かり易い分内容が表層的に流れているような印象もあった
特に気になったのは、彼が折角「妄想力」という言葉を提示しながら
「想像」や「想像力」という言葉とごちゃ混ぜにして使っている点だ
「妄想」と「想像」という二つの異なる言葉があるように
各々のニュアンスは違うものだと思っているぼくにとっては
それが、両者が等価、若しくは後者が前者の域内にあるというのであれば
それはそのように規定して運用してほしかった
「妄想力」という言葉が刺激的なだけに残念に思った所以である

扨、では人はどのようにしてこの「妄想力」を手にいれたのだろうか
著者は「鏡映像認知」などの話を通して
「心の世界、感覚の世界があると感じるシステム(=「妄想力」?)を、
あるとき学習によって身につけた」(括弧内は筆者)
と書いているがどうなんだろう
人は脳の肥大化とともに想像し空想する感覚を手に入れたのだろう
だが、それは同時に妄想する力を手にすることでもあったのではないか
想像力が高ずれば妄想になるだろうし
妄想する力がなければ発想の飛躍はないだろう
妄想力と想像力はまさに諸刃の剣で片刃では成立し得ない
そしてこの部分こそは学習によってコントロールするよりなかったのではないかと思う

今思うと、著者の目的は妄想と想像の違いを云々することではなく
自分を外側から認知する(つまり他を理解する)感覚のひとつとして
想像力や妄想力の重要性を説きたかったのかもしれない
これはこちらの「妄想力」に対する妄想が過ぎたのかもしれない

posted susumu
12:00 PM | comment(0)

25 11 07

美しい脳

養老孟司氏の言葉だが
「無理なく自然で余計がない」
のが「美しい脳」だとのこと
人生のあり方にも通じるものがあるように思う


まず「無理なく」は
妙な作為や理屈がないということ
「自然で」とは
あるがままということ
そして「余計がない」とは
必要十分であるということだ

しかしこれは設計においてもとても重要な事柄だ
そのあたりは”SUMAI NOTE”で考察したいが
今、人の人生はあまりに複雑になってはいないだろうか
不確かな情報に振り回され
追い立てられるように消費に走り
次から次へと強迫観念に駆り立てられる
無用の複雑さだ
これでは脳がオーバーヒートしてストレスを感じるのも無理はない
もっとシンプルに生きたいものだ

posted susumu
10:26 PM | comment(2)

23 11 07

アルハンブラ再び(修正版)


2年前アップしたとき、このスケッチの写真画像の質はあまりにも残念だった
いま、本来の色合いを蘇らせてここに再掲する

あのとき書いた感慨はまさにこの色に対してだった

posted susumu
04:11 PM | comment(0)

22 11 07

霧のイスタンブール



イスタンブールに着いたときは朝4時ぐらいであたりはまだ真っ暗
寒くて疲れていたぼくは直ぐに薄いベッドに潜りこんだ

それが小一時間も経たないうちに窓の外から響き渡る声に叩き起こされた
「アッラー アクバル」(アラーより他に神はなし)
独特の抑揚が耳に残る
嗚呼、ぼくは遂にあのアジアとヨーロッパのクロスポイント、歴史の要衝
イスタンブールに来たんだ
そして霧の向こうに浮かぶ街のスカイラインは見たこともないものだった
この日の朝の驚きと感動は今も目に焼き付いている

posted susumu
04:14 AM | comment(1)