cafe ICARUS

presented by susumulab

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26 02 08

ナショナル・ギャラリー

ロンドンに来て比較的早い時期にぼくは、
楽しみにしていたトラファルガー広場の前にあるナショナル・ギャラリーを訪れた。

海外に出て楽しいことは沢山あるけどそのひとつに、美術館巡りがある。
美術の教科書や百科辞典の巻末にあるような印刷の悪い美術集でしか知らない
名画の数々を実際にこの目で見ることができるのだからこれはたまらない。
ナショナル・ギャラリーは、是非訪れたい美術館のひとつだった。

行ってまず、入館料が自由(フリー)で定められていないというのに驚かされた。
お代は観た貴方のご自由に、というわけだ。
規模や維持管理を考えると、とても無料などとは言ってられないはずだけど
このあたりに文化に対するイギリス人独特の気取りと気概を感じた。

時代別に区切られた展示室にはお馴染みの名画がずらりと並んでいた。
ラファエロ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、ドラクロア、ルーベンス
セザンヌ、モネ、ルドン、ターナー、ドガ、ゴヤ、レンブラント、ピカソ、ゴッホなどなど。
なかでもカラパッジョの存在感は凄かった。
数はすくなかったけど圧倒的な雰囲気をあたりに撒き散らしていた。

ふと思ったことがある。
ものの美しさや価値は教えられるより自分の目で発見した方がいい。
そして、それからその理由を探してみることだ。
苦労もするけど、その分発見のよろこびも深いし収穫も大きい。
それから学んでも遅くはない。

その昔、フランス文学の権威である桑原武夫が何処かで書いていたのだけど
何か研究目的などあって海外に出かけるときに、
彼はわざと十分な下調べをしないで思い立ったそのままの気分で
目的の場所に飛んで行くらしい。
そうすると余計なフィルターを透さないで自分の素の目で見ることができる。
帰ってから調べてみると、勿論調べとけば良かったということもあるけど、
繋がらなかった事柄が立体的に繋がったり、見たものの事情が飲み込めたり、
そうして見ないで調べるより返って見てから調べた方が理解が早まるのだ、と。
成る程な、と思った。

今回の旅の意義はどうやらこのあたりにありそうだった。
見る前に飛べ、もっと見ろ、と。

扨、名にしおう数々の名画を堪能するなかで、
展示室を繋ぐ通路部分に瘤のようにできた小室がひとつ。

他の展示室の床は全てフローリングなのに、
ここだけはカーペットが敷き込まれていて足音もしない。
照明も細心の注意が払われて薄暗く
一脚のベンチが置かれているだけ。
流れる時間が明らかに違う。

たった一枚の絵のために設けられた特別な展示室、
それが第七号室だった。

そこで至宝のように大切に扱われている絵は、
レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサン、『聖アンナと聖母子像』。

誰もがその部屋に入ると息を飲み沈黙してしまう。

それはもうデッサンというより「紙の上に描かれた彫刻」と言っていい。
人物がキャンバスを突き破って盛り上がってくる。

デッサンであるが故に皮膚の下の深層にあるものまでリアルに見えてくる。
それが生き物のようにムクムクと迫ってくる。
その凄さに自分の体が震えているのがはっきりと分かる。

恐ろしいまでの表現力、洞察力、探究心、執着心、完全主義。

こころを落ち着けてじっと眺めていると、
何度も重ねられた、流れるように流麗な木炭のタッチに
天才レオナルドの手の動きを感じ、やがて息遣いが感じられてきて
はたと自分が彼と同じ場所に立っていることに気付かされる。

狂おしいまでの瞬間。

それはまるで、ホログラム再生のコードでもあるかのように、
その線を正確になぞることによって
こちら側にいたはずのレオナルドが鮮やかに浮かび上がってくるのだった。
いや、ぼくには確かにこちら側で描く彼の姿が見えた、気がした。

辿ろうとしても辿りきれないあまりにも美しい見事な線。
感動できる喜びと届かない世界を覗き見る瞬間。
どれだけ其処にいたか分からない。

すっかりナショナル・ギャラリーに魅せられたぼくは
ロンドンにいる間に何度かこの場所を訪ねた。
その度にこのデッサンに見入った。
そして、その度に入館料フリーがどれだけ大切なことかを想った。

posted susumu
02:23 AM | comment(0)

18 02 08

パムッカレ

段々状に広がる白い棚田のような
パムッカレの風景

湧き出す温泉水に含まれた石灰が少しずつ固まって
このような不思議な光景ができているのだが
ぼくが行った当時は、
直ぐ上にあるホテルの雑排水が混じり込んでいて
所々赤茶けたところなどあって
期待していたほど美しくはなかった。

でも、世界遺産になるに及んでその問題は解消したらしく
先日TVで見たときは見事な純白の
文字通り「綿の宮殿」(=パムッカレ)だった。

posted susumu
06:55 PM | comment(0)

13 02 08

錫製のデコイ

「ロンドン」からのつづき

彼の名はジョン・パティスンといった。
政府との契約で主に第三世界に英語を教えに行っているのだという。
それは異国の文化や習慣に触れたいという彼の趣味と実益を兼ねていた。
だから、外国人であるぼくに気軽に違和感なく話し掛けてきたのでろう。

また、そいういう人だから、ぼくのいうこともよく聞き十分に理解してくれた。
すっかり意気投合して、ロンドンにいる間に何度も彼と会った。

彼の住まいは郊外に住む彼の伯父のところにあって、
出会ったときはロンドン市内にフラットを探していたときだった。
ぼくが設計の仕事していることを知って、彼はフラットの見分に誘った。
仕事柄興味もあるので同行する約束をして別れた。

二日後再会して候補になっていたフラットを3ヶ所見てまわった。
間取りに大差はなかったが、すべては壁と窓と配置する家具とのバランスなので
家具のレイアウトを想定してメジャーで測って具体的にアドバイスした。

何より驚いたのは築後の年数で、100年とか150年とかは当り前で
築200年というのもあった。
みんな外観は建った当時のままで内部をリフォームして使い続ける。
古い方が返って人気があるみたいだった。
窓枠やカウンターの、何度も塗り重ねられた油性ペンキの層が半端じゃなく
それが木製だと俄かには信じがたい程にぶ厚かった。

今でこそロンドン市内でも超高層のビルが建っているが、
ぼくがいた当時は、
チャールズ皇太子の、高層ビルを嫌悪する発言が取り上げられたりしていて
テームズ川の周辺の再開発さえままならない状況だったから
大都市なのに驚く程高層ビルが少なかった。

ランカスターでスタンレーさんが「イギリス人は変化を嫌う」
と言っていたのを思い出す。

候補に上がっているフラットの近くにあるパブで昼食を取った。
店の中は船の材料を構造材や造作に使ったユニークな雰囲気だった。
近くの大学の教授連中が生徒を引き連れてくることが多いらしい。
そこでぼくらはビールを飲み魚料理を楽しんだ。
そのあと再び街に出て別のフラットを訪れてチェックした。

夕食は新しくできたテームズ川の岸辺にあるミュージックホールに移動して
ジャズライブを聞きながら取った。
イギリス人とジャズというのは、たとえばフレンチ・ジャズと呼ばれる程に
ジャズが浸透しているフランスに比べると
いまいちピッタリこないように思ったが、そうでもなかった。

後日、ジョンが決めたフラットへの家具の搬入に立ち会い
レイアウトを手伝った。

数日後、フラット選びのアドバイスのお礼ということで
彼の70歳を越える伯父さんのお家にお邪魔して
一緒に食事をすることになった。
伯父さんはもうリタイアしているけどその昔工業デザイナーだったらしく
ぼくのアドバイスの内容を聞いて興味を持ったようだ。

彼の家はロンドン郊外の一軒家で、ゆったりとした庭を構えていた。
少し腰は曲がっているが優しい笑顔を湛えた老紳士だった。
その笑顔は、ひょんなことから甥っ子と知り合ったこの奇妙な東洋の友人を
快く出迎えてくれた。

招き入れられた室内は、如何にも彼がデザイナーであったらしく
綺麗に整理されていて実に気持ちよかった。
俄かに片付けたものではないのは直ぐに分かった。

食事をしながら、ウィリアム・モリスと日本の関りや日本の建築のことなど
デザインに関する様々な話を聞いた。
そのとき、ぼくは自分があまりにも日本のことを知らないことに愕然とした。
伯父さんは学者ではなかったけど、学校でデザインを教えてもいたから
工芸や家具に対する歴史観や目はしっかりしていたし
日本のデザインのこともかなり詳しかった。

西洋と日本の違いを説明するのに、
そのつもりはないけど、やはり禅や仏教を背景とした、
西洋から見たらエキゾチックでミステリアスな表現になってしまう。
それはあまりにもイージーなことだ。
観念的なことをきちんと表現するにはぼくの英語力では無理があったが
それにしてもお粗末であったのは否めない。
いや、それは、知っているか知らないか、みたいな知識のことではなく、
日本で生まれ育ったオリジナルな感性とでもいうか、
そういうものとしっかりと向き合った経験や知恵がないということだ。
今なら少しはましな受け答えができたのではないだろうか。

それでも、小綺麗な庭を眺めて
如何にもイギリスらしい午後の紅茶を飲みながらの会話はとても楽しく
これからの自分を考える上でも随分と刺激になった。

別れ際に、
伯父さんは、彼が昔デザインした錫製の小さなデコイをプレゼントしてくれた。
絵皿もあったのだけど、ぼくの旅がこれからどうなるか分からなかったので
壊れないものとして選んでくれたものだった。

また会うことを約束して彼らと別れたが、それが最後になった。

ジョンはぼくの実家に何度か手紙をくれたみたいだけど
放浪を続けるぼくからの返事はなく
彼もまた、英語の教師として東南アジアや中東など転々として行ったみたいで
やがて連絡も途絶えてしまった。

日本に帰ってから数年経っただろうか。

「イギリスに行く」という友人がいたので伯父さんへの託けを頼んだ。
別れるときに、「日本に帰ったら何かお返しをしたい」と言ったら
「日本の焼き物がいいな」と答えた伯父さんの希望を叶えるものだった。

ただ送るのではなく、ぼくの友人に届けてもらえば、
ちょっとしたサプライズになって伯父さんは喜ぶだろうし
ぼくの近況をあれこれと尋ねるだろう、と思ったのだ。

でも、残念なことに連絡がとれなかったみたいで
友人は贈り物をそのまま持って帰ってきてしまった。

仕方なくぼくは割れないようにしっかり梱包して
その焼き物をイギリスに送った。

暫く経って、
ロンドンの郵便局からその品物が返送されてきた。
一通の手紙が添付されていた。

そこにはこう書かれていた。
「宛名の人は既に亡くなっています」

永遠に届かないお返しになってしまった。

posted susumu
09:20 PM | comment(2)

02 02 08

20%

小さい頃から昆虫が好きで、彼らの生態をよく観察した。
田舎では、蟻の行列を「伊勢参り」というが
これなど面白くてよくじっと飽きもせず眺めていたものだ。

でも、不思議なことがひとつあった。

小学校の理科の本には、よく巣の断面など図解入りで
蟻や蜂が人間以上に高度に社会化した
一所懸命働く賢い生き物であると書かれていた。

そう思って、せかせか歩いている蟻の行列を観察していると、
どうもちがう感じがするのである。
なんというか、どうみてもただうろうろしているだけで何もしてないような
いい加減なヤツがいるのだ。
というか、そんなヤツの方が多いような気がするのである。

子供心に、変だなあと思いつつも
列を乱さないように監督しているのや伝達係をしているのとかがいるのだと
自分自身を納得させていた。

ところがもう16年ぐらい前になるが、
「現代思想」5月号に書かれている記事をみて、ぼくは驚いたのである。

働き蟻の生態を観察すると、実際に働いているのは全体の20%に過ぎず、
残りの80%はちゃんと働いていないというのだ。やっぱり!
そこで、同じ種類のそれぞれ別々のグループから働く20%の蟻を集めて
ひとつのグループを形成してその行動を観察してみるとどうなるか。
何と、これまた働くのは20%の蟻だけになってしまうのだ。
働く働き蟻の80%が働かなくなってしまうのである。

面白すぎるが、どういうことかというと
80%の蟻は、ちゃんと働かない(=儀礼的に働く、働くふりをする)ことによって
労働に貢献しているのである。
つまり「福祉としての労働」をしているのである。

そして、この割合が会社などの組織体にも当てはまるらしいのだ。
働く者ばかりでは返って効率や能率の悪くなる時が確かにあるではないか。
よくできている。

posted susumu
10:21 PM | comment(0)

ロンドン

朝方、London Euston駅に着いた。近くにある安いホテルを探して
とりあえずそこに泊まることにした。ロンドンの日々が始まった。

思えば、日本を飛び出して一ヶ月あまり、
落ち着くこともなく北欧を一回りしてきた感じで気の休まる時はなかった。
それでも、いろんな人に助けられたり美しい風景に出会ったりしながら
ここまで来た。漱石や熊楠のいた町、ロンドン。
ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』の出発点になった町、ロンドン。

鼻にかかった円やかな発音が心地いい。
少し耳が英語に慣れてきたのかもしれない。

ぼくはまだこれからの自分を決めかねていた。
設計の仕事を探すのか、学校に行くのか、まだ見ぬ世界を見て歩くのか。

とにかく情報が引き出せそうなところに手当たり次第に連絡を取った。
建築家協会や日本人クラブに出向いて行き、事情を説明して
設計に携わる日本人を紹介してもらい、彼らに会って話を聞いた。
ランカスターで世話になったマーク氏の友人である建築家とも
コンタクトを取ってもらった。

AAスクールにも行った。普通のアパートメントなんだけど実は学校。
面白そうな場所だった。
事務局にはサンドラというとても親切な女性がいて、編入学のことも含めて
丁寧にアドバイスをしてくれた。
彼女からこの学校で講師をしている日本人を紹介してもらい
ロンドン郊外に彼を訪ねて作品や設計の話を聞かせてもらったりもした。

最初に泊まったホテルが酷かったこともあるけど、ホテルを転々とした。
最終的にはセント・ポール大聖堂の近くにあるユース・ホステルに落ち着いた。
このユースは便利のいい場所にあり居心地もよく長居した。

この大聖堂は、生涯に設計した教会の数はこの人が最高ではないかと思う、
クリストファー・レンの代表作である。
彼は、1666年のロンドン大火の復興に尽力し
建築以外の分野の天文学や数学に於いても才能を発揮した万能の人である。

また、この教会の近くには珍しく日本の書店もあった。
ただ、当然のことだけど値段は高く文庫本でも3倍の値段はしたかな。

ぼくは、この街でパブにはまってしまった。
なかでもお気に入りは、ユースからはちょっと歩く距離だけど
地下鉄のブラックフライヤー駅の横にあるパブだった。

パブは、まあ立飲みかスタンドバーみたいなものなんだけど
もっと奇麗だし、歴史を感じさせる風格がそれぞれのパブにある。
そして、必ず奥か何処かの一角に座って食事のできるグリルコーナーがある。

なんといっても、パブのカッコ良さはカウンターの中にいる人(女性)だ。
髪型はポニーテール、パリパリに糊の利いた真っ白なシャツに黒の蝶ネクタイ、
そして黒のタイトスカート、と大体決まっていて所作は常に機敏で美しく、
しかし客には全く媚びない、至ってクールな態度。プロフェッショナルだ。

その後、この国にいる間中行く先々のパブに入り浸ったが
どれひとつとして同じものはなかった。

アメリカに渡ったとき、このイングリッシュ・パブが懐かしくて
探しては入ったけどこうはいかなかった。
今も変わってないだろうか。そうであってほしい。
今でも、この気分に浸りたくなると曽根崎か堂島の『サンボア』に足を運ぶ。
尤も、カウンターの中にポニーテールの彼女はいないが。

人と会う合間を縫って、あちこちに行った。

例えばバース。バス(風呂)の語源になった場所だ。
ローマ時代の遺跡がしっかり残っていて綺麗に整備された町だった。
街並みは、家々がピッタリとくっ付いていて、色や窓に若干の変化はあるけど
ほぼ同じファサードのパターンを連続して通りに対する壁面を形成している。

変な記憶だけど、ここで食べたアイスクリームが何故か後のアメリカ以上に甘く
美味しかったことがいまだに忘れられない。
ウィンザー城にはレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿があるので絶対に見逃せなかった。
それからウィンブルドンのセンターコート。
電車の駅名に「ウィンブルドン」があったので急に思いついた次第。
その日その時のためだけの場所、これこそ場所性というか「場」の力を感じる。
イギリス人はこういう演出が実に上手い。

日本の新聞社の支社にも出向いて行った。
これには理由があった。
阪神タイガースの戦い振りが知りたかったのだ。
日本を離れるとき、ひょっとしたら二十年ぶりに優勝するかも知れない
という位置につけていた。
今世紀(二十世紀)中の優勝はない、とまで囁かれたダメ球団がである。
関西は大騒ぎだった。

当時はインターネットなど普及していないからこのような情報を得る術がない。
だから、ロンドンにある日本の新聞社の海外支社に行って事情を話し、
置いてある新聞を見せてもらうことにしたのだ。
応接してくれたのは日本人の女性だったけど、時代なのか話を聞いて簡単に
中に入れてくれた。今ならあり得ないだろう。

彼女は、一般紙とスポーツ新聞(系列の違う新聞社のものだった)の束と紅茶を
ソファの前のテーブルに置いて
「ごゆっくりどうぞ」
と言って静かに応接室から出ていった。
ここがロンドンであることを忘れてむさぼるように読んだ。
目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
ぼくは、彼女の気遣いに感謝した。

郊外に人を訪ねての帰り、たまたま駅のトイレで落とした本を
拾ってくれた人が人懐こく話し掛けてきた。
「日本語の本? 日本人ですか?」
牛乳ビンの底みたいな分厚いめがねを掛けた、
見るからに人のいい中年男性だった。

posted susumu
01:04 AM | comment(0)