cafe ICARUS

presented by susumulab

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29 10 08

ノートルダム寺院

『風のファルーカ』も漸くドーバーを渡ったので
スケッチもパリで描いたものを一枚

石造りの建物が光を取り込むのは容易ではない
キリスト教の宗教心と権勢を誇示して上層に伸びようとする力の一方で
分厚くなる石の壁を切り分けて如何に大きな窓を設けるか
その渇望から生まれた構造的工夫が跳び梁(フライング・バットレス)
この絵はその部分を描くために
正面からではなく、斜め後方から捉えることにした
建物の平面構成が十字型になっているのが屋根の形で分かる
心臓部に高い尖塔が立ち、翼廊には薔薇窓が見える
内部は光の洪水だ
この辺りはスリや引ったくりが多いと脅かされたけど
かなり集中して描いたなあ

因みに、関係ないけど
「ノートルダム」って「ノストラダムス」なんですよね

posted susumu
01:11 AM | comment(2)

27 10 08

『経済の文明史』カール・ポランニー

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)




経済を生き物として捉え
その歴史的なパースぺクティヴを
鋭い洞察と明晰な分析で展開する

友人に「経済を文化人類学的に捉えた人の本」として紹介されてこの本を買った
経済には全く疎いぼくに興味があったのは、
例えば古代ギリシャやバビロニア時代の経済というものが
一体どういうものであったのか
などというものであったが、目次を見てみると
「市場社会とは何か」や「アリストテレスによる経済の発見」
とかあるかと思うと「ファシズムの本質」みたいなものまであり
ポランニーの研究範囲が多岐に渡っていたことを窺わせる

読後、確かにポランニーその人は学問的巨人には違いないが
数ある中からこれらの論文を選び編み
それに『経済の文明史』というタイトルをつけた
日本側編者の能力の高さとセンスの良さにも感心した

アメリカのサブプライムローンが破綻しバブルが弾けて
世界中の経済がジェットコースターに乗せられたが如き状況にあって
そもそも「市場原理に基づく経済」とか「自由主義市場」とか言われるものは
一体何なのかを考えるとき
ポランニーの論文「市場社会とは何か」は示唆に富んでいる

市場原理主義の考え方はブログによるネットニュースに似ていると思う
ネット・ニュースはそのニュースソースや客観性において不安定な点があり
ガセネタや憶測が入っている場合もあるかもしれないけど
最終的には正確な情報に淘汰されて行く「情報進化論」とでもいうような考え方だ
市場原理主義も同様に、総てを市場の動向に委ねることで
誤りや行き過ぎがあるかもしれないが最終的には健全性を保つ、という訳だ

でも、今回の破綻の状況をみていると
市場に「欲望に対して正直である」という意味に於いて
ある種の健全性はあるかもしれないが、モラルや理性があるとは思えない

誰かが儲かると聞いたら其処に群がる者がいる
かと思うと他のところに儲け話を見つける者がいる
誰かが損をしたら脱兎の如く逃げ去る者がいる
かと思うと今が買い時とばかりに近寄ってくる者がいる
このようにベクトルが一方向に集中しないから
結果的に健全性を保つということなのだろうが
全員若しくは殆ど全員が儲かるとなったら話は別だ
ベクトルが一方向に集中してバブルが発生する
逆に、全員若しくは殆ど全員が損をすると思ったとしてもことは同じだ
ベクトルが一方向に集中してバブルが崩壊する

サブプライムローンを構築した「金融工学」なるものの大前提は
「アメリカの住宅価格は上がり続ける」というものであった
だから、借りたお金で更に高い物が買えてお金も返せる
これを繰り返せばずっと儲かるというわけだ
殆ど落語みたいな話だが、20年近く前の日本でも同じことがあった
「日本の地価は永遠に上がり続ける」という漫画みたいな土地神話だ

ちょうど放浪を終えて日本に帰ってきた頃だった
「日本ひとつでアメリカが3つ買える」「ロックフェラービルを買った」とか
猫の額みたいな土地を担保に、億を超える融資を勧誘する銀行員など
その妙に浮かれた空気には異常を通り越して狂気さえ感じていた
当時いろんな人に話をしても
「みんなが儲かっているのだからそれで良いではないか」
と笑われるだけだったことを覚えている

ポランニーは言う
もともと交易経済に市場は存在していなかった、と
そして、市場が生まれて発展する過程にあって市場に含まれないものが3つあった
貨幣と土地と労働である
「売買されるものはすべて販売のために生産されたものでなければならない」
という経験的定義によれば
貨幣は便宜で、土地は不動、労働は実態的なものだから
本来の定義に従う商品ではあり得ない
ところが、近代になってこれらも商品となって市場に組み込まれた
どのようにしてか?
フィクション(=擬制)を与えたのである
貨幣には利子が、土地には地代が、労働には賃金という擬制が与えられて
これらは初めて市場で扱われるようになったのだ

此処に於いて、市場に病理が内在することになる、と彼は指摘するのだ

市場に組み込まれるということは、投資の対象になるということだが
それは同時に投機の対象にもなるということだ
前述したように市場にモラルも理性もあるとは思えないから
(善悪の問題ではなく、単に必要ないから両方ないのだろう)
人々の生活はときに暴れる市場に振り回されることになる
そして、実際に今そうなっている

ラスベガスで擦ったお金を税金で穴埋めする
みたいな何とも理不尽で納得の行かない公的資金の注入も
(勿論、アメリカの場合、現時点ではこれしかないと思うが)
今の「自由で健全な(=身勝手で野蛮な)」市場を見ていると
それ自体が当然のことで「まだ足りない」と言っているかのようだ

これほど膨大な情報が全世界に広がるようになったネット社会では
一見多様な考え方や価値観が生まれてくるように思えるが案外そうではなく
ブランドや流行に乗せられて簡単な情報操作に犯されてしまうような
極めて脆弱な社会に成り下がる可能性が高い
「20%」の蟻ではないが、市場を揺さぶる程の力を持つものが極少数いて
それらはお互いを知ることはないがその存在は意識でき
しかも誰の意思でもなく全体で明滅を繰り返す「ホタルの木」のように
お互いの動きを総和的に把握できるとするとどうだろう
市場を通して「もっと税金を出せ」と恫喝できるということだ
ぼくは恫喝されているような感じがする

市場経済のことばかりではなく
ポランニーの洞察は鋭く、ファシズムを糾弾するところでも
宗教の取扱いの点でそのドグマの矛盾を突く
この中で展開される「精神と魂」に関する叙述は
精神も魂も一緒くたにしたような日本的な曖昧な宗教観とは程遠い
その緻密さに驚かされる
これがキリスト教の伝統なのかもしれないが、この文章を読んだとき
何故新渡戸稲造が英語で『武士道』を書かなければならなかったのかが
少し分かったような気がした

アリストテレスの話も、はじめは何のことか分からないが
読み進むうちに、彼の時代の、彼が見た「経済」がどんなものであるかを
細かく分析し正確に解き明かすことで
ぼくたちはその時代の状況に立ち会うことができる
経済学に及ばず該博な考古学的知識と人間に対する深い洞察がなかったら
(そして何より言語に対する鋭い分析能力がなかったら)
このような考察はあり得ないだろう


それにしても、
フィクションを経済学的な訳として「擬制」としているが
普通に訳すと「空想」や「架空」になる訳で
そう考えると現在の状況は空恐ろしいものがある
市場に組み込まれた幻想の上でぼくたちは振り回されているということか

posted susumu
12:11 AM | comment(0)

23 10 08

生態学的地位

知人が送ってくれた新聞の切り抜き記事の中にあった言葉
一瞬「何のこっちゃ?」と思うけど
生物学用語として使う「ニッチ」の正しい意味なのだそうだ

建築では、
壁などのちょっとした凹みのことを「ニッチ」というが
生物学でいう「ニッチ(=生態学的地位)」とは
生き物には其々の生活圏というか場所があって
皆綺麗に分かれている 棲み分けている
その隙間というか幅というか、それをニッチ(生態学的地位)と呼ぶ
例えば、動物の鳴き声などはその音域が綺麗に別れていて混乱することがない
(それを「サウンド・スケープ」と呼ぶようだけどいい言葉だなあ)
ところが、人間の作り出す音はニッチを無視して傍若無人にかき乱すだけ
それが窓の向こうから聞こえてくるノイズだ
とてもサウンドとは呼べない
このように、人間だけが本能の縛りを超えて自然を加工し
ひとり勝ちのニッチを作ってしまう
でも、それは簡単に自然のバランスを崩してしまう
何故人間だけが本能の箍が外れているのだろうか
モンスターか、ミュータントか、それとも健全なる進化か
総ては、人間の持ってしまった脳の所為だろう
脳の発達によって想像する力が格段に増し、
創造し妄想することができるようになって
過去・現在・未来を時間的に別のものとして把握できるようになった
更に、技術と言語と文字を得てそれを情報として固定できるようになって
交換情報が急速に増えた
ネットの世界は、これらの脳の発達要求に答えた
当然の帰結に過ぎないのではないか
そして、脳は更なる情報と進化を求めて
宇宙に飛び出して行くことになるのではないか
これまで、地球の環境的キャパや人口問題から
そのようなことが起こるのではないかと思っていたが
寧ろ、脳発達の当然の結果として
魚類から進化して地上に這い出た最初の両生類のように
人類は宇宙をめざすのではないだろうか
1904年にライト兄弟が空に飛んでから僅かに100年余り
(二宮忠八の評価が低いのは残念だけどね)
世界中の都市を飛行機が結びスペースシャトルが宇宙を行き交う時代だ
人類が最初に遭遇する宇宙人は実は人間なのかもしれない
そんな気がしてきた

posted susumu
01:14 AM | comment(0)

19 10 08

イギリスの侍 (つづき)

「エ~ッ」も「あー」もなく
全くいきなりの話があれよあれよという間に
頭の上で纏まっていった

ああもう、なるようになるかぁ

とは思ったものの
気になることがあった

防具の臭いだ! どうしよう?

自分のだったらまだしも、
他人の防具でしかも西洋人のだったら尚のこと
まさに「オーマイガー!」ではないのか
と、正直恐れた

ところが、です

クヌッセンさんご夫婦から手渡たされた防具は
手入れに露程の抜かりもなく
なんと黴臭くもない
袴など、並みの日本人にはとてもできないほど
折り目正しく皺ひとつなく
稽古着もいいヨレ具合で
寧ろ風格さえ感じられるくらいだった

でき過ぎだ

もう、躊躇う理由など何処にもなく
あっという間に車に乗せられてしまったのである

嗚呼、なんか剣道を始めた中学時代を思い出すなあ
顧問の先生も熱い人だったなあ、どこかクヌッセンさんに風貌が似てるし
温厚で物静かな物理の先生だったっけ
剣道の盛んな十津川郷で鍛えたその腕を頼んで
剣道部の顧問になってもらったけど
根っからの剣道好きで
防具を着けた途端に人が変わって
超攻撃的モードになるのがとてもシュールで不思議な
恐いけど優しい先生だったなぁ

てなことを呑気に夢想している間に車はブライトン市街に着いてしまった

道場は街中の煉瓦造りの倉庫を改造したもので
試合をするにはちょっと幅が足りなかったけどとても綺麗で
中津の吹き曝し道場よりは遥かに立派だった

中に入ると
既に門下生は集まって来ていて
皆稽古着に着替えていた

最近は、天神祭でも
実にさりげなく浴衣を着こなしている外国人を見かけることがあるが
これなどは文化の浸透密度がもの凄い勢いで進んでいる所為だろう
少し前なら日本人でないと分からなかった文化風土が
たとえばマンガやアニメなどの形で
ネットを通じて世界中でほぼ同時的に共有されているのである
この力は大きい

今更、攻殻機動隊の草薙素子ではないが
「ネットの世界は広大だわ」なのである

だからネットも発達していないこの当時
彼らが普通に稽古着を着て普通に防具を身に着けているのを見て
ぼくはとても驚いたのだった

クヌッセンさんご夫婦の横に座らされたぼくは
風格ある稽古着の所為もあって皆の注目の的だった
その目は本物のサムライを見つめるような目だった

タハハ、参ったなあ

ぼくは師範じゃないんだけど
と思っていたが
掛かり稽古になれば
我勝ちにぼくの前に並んで稽古を望んでくる

よし!
日本人の真のサムライ魂見せてやるか!
と勢い込んでガンガン飛ばした

が、飛ばし過ぎました

ものの10分もすると息が乱れ
その5分後には息が上がり
30分過ぎには既に失速状態で
足さばきもおぼつかなくなってしまい
なんとも情けない有様

最後はクヌッセンさんに
助け船を出してもらって
漸く体を休めることができた

それでも
剣道で流した汗はとても気持ち良く
イギリスで剣道なんて
なんとも不思議で爽快な体験だった

最後に稽古をした全員と挨拶を交わしシャワーを浴びて
皆と別れてルイスに戻ってパブに繰り出し
飲んだビールが最高に美味かった
けど、酔いつぶれたのかそのあとの記憶が今もはっきりしない

翌日は、普通に日本茶が出てきて驚かされ
そのあとホワイトクリフ(白い崖)を見につれていってもらった

これは絶対に見たかった風景だ

緑の絨毯のように柔らかな丘が突然断絶して
白い牙のような崖となりドーバー海峡を臨む
その落差が厳しくも美しい
何故か夢の中でよく見る風景でもあった

お昼には味噌汁が出てきてまたびっくり

あまりにも色々あった二日間なのに
日記を読み返してみると実にあっさり
そっけないのには驚いた

奥さんに別れを告げ
クヌッセンさんに駅まで送ってもらい
初めて出逢った場所からぼくは再びロンドンに戻った
イギリスの侍との別れだった

そして、遂にこの国を離れるときが来た
次はパリだ

当時は今みたいなトンネルがないからTGVも走っていないので
ロンドンからパリへはバスに乗りフェリーでドーバーを渡った
バスの中でパリ出身のかわいい女の子と知り合い
呑んだり喋ったり楽しい時間を過ごした

あんまり楽しかったので、気が付いたらそこがパリだった。

posted susumu
10:51 PM | comment(2)

01 10 08

にっぽん泥棒物語

にっぽん泥棒物語




この映画のことをどう説明したらいいのか
戸惑ってしまう
大昔に、テレビで、しかも一度観ただけの
それでも心に強く残る山本薩夫監督の傑作

山本薩夫という人は不思議な映画監督だ
小さい頃から強く印象に残っている

所謂社会派の映画監督
としてではない

ぼくが覚えているのは
『牡丹灯篭』と『忍びの者』の監督としてだ

『牡丹灯篭』はご存知怪談ものだし、『忍びの者』は忍者ものだから
社会派とは何の関係もない娯楽ジャンルに思えるのだが
描き方が違う、ハンパじゃない

それが子供心にも分かる

たとえば『牡丹灯篭』
幽霊である武家の娘とお女中が恐いのだ
幽霊だから恐くて当り前だけど
他の幽霊とは違って、何というか動きがリアルなのだ
幽霊だから足がない、ということかも知れないが
彼女たちは微動だにせずに文字通り「すう~」と動くのだ
それは、あたかもこの世のものではない霊魂を象徴するかのようで
恐い

思わずスタンリー・キューブリックの『シャイニング』を思い出してしまう

その幽霊に、生気を吸い取られてゆく本郷功次郎を
助けようとする人のいる中で
欲に目が眩んだ夫婦を演じる
西村晃と小川真由美の下品さがこれまた絶妙だ

たとえば『忍びの者』
主人公は市川雷蔵演ずる忍者だが、
苗木を植えてその成長と共に跳躍も成長させて行くだとか
様々な忍者の厳しい世界がリアルに描かれる
その忍者の存在感が圧倒的に他と違う

まるでクリストファー・ノーランの『バットマン・リターンズ』だ

こんなふうに彼の手にかかると
物語の質も厚みも変わってしまう

扨て、『にっぽん泥棒物語』

この映画を観たとき
実は、映画のタイトルさえ知らなかった
後に、自分の映画ベストテンを掲げる機会があって
「タイトルは知らないけれど」という注釈付きでこの映画のことを喋ったら
その話を聞いた人が調べてくれて漸く分かったくらいである

そんな具合だから、ほんとに何も知らずただダラッとした感じで
この奇妙な「詐欺師」(と最初は思っていた)の喜劇を観ていたのだ
ところが途中から物語は意外な方向に展開してゆく
寝転がっていた体も何故かしゃんとしてくる
そして、最後には正座して観ていた
「人間の真実、尊厳、誇り、良心とは何か」を笑いと涙の中で問いかける
その見事な構成に思わず引き込まれてしまった

勿論、三国連太郎を中心とした俳優の演技も素晴らしい
特に、『牡丹灯篭』の西村晃ではないが
脇役の存在感がほんとに凄い
これが映画を更に高める
山本薩夫監督の特徴なのだろう

「喜劇」とか「社会派ドラマ」などという枠には当てはまらない
最近はこんなに骨の太い映画は観たことがない

posted susumu
12:39 AM | comment(4)