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◆『経済の文明史』カール・ポランニー

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)




経済を生き物として捉え
その歴史的なパースぺクティヴを
鋭い洞察と明晰な分析で展開する

友人に「経済を文化人類学的に捉えた人の本」として紹介されてこの本を買った
経済には全く疎いぼくに興味があったのは、
例えば古代ギリシャやバビロニア時代の経済というものが
一体どういうものであったのか
などというものであったが、目次を見てみると
「市場社会とは何か」や「アリストテレスによる経済の発見」
とかあるかと思うと「ファシズムの本質」みたいなものまであり
ポランニーの研究範囲が多岐に渡っていたことを窺わせる

読後、確かにポランニーその人は学問的巨人には違いないが
数ある中からこれらの論文を選び編み
それに『経済の文明史』というタイトルをつけた
日本側編者の能力の高さとセンスの良さにも感心した

アメリカのサブプライムローンが破綻しバブルが弾けて
世界中の経済がジェットコースターに乗せられたが如き状況にあって
そもそも「市場原理に基づく経済」とか「自由主義市場」とか言われるものは
一体何なのかを考えるとき
ポランニーの論文「市場社会とは何か」は示唆に富んでいる

市場原理主義の考え方はブログによるネットニュースに似ていると思う
ネット・ニュースはそのニュースソースや客観性において不安定な点があり
ガセネタや憶測が入っている場合もあるかもしれないけど
最終的には正確な情報に淘汰されて行く「情報進化論」とでもいうような考え方だ
市場原理主義も同様に、総てを市場の動向に委ねることで
誤りや行き過ぎがあるかもしれないが最終的には健全性を保つ、という訳だ

でも、今回の破綻の状況をみていると
市場に「欲望に対して正直である」という意味に於いて
ある種の健全性はあるかもしれないが、モラルや理性があるとは思えない

誰かが儲かると聞いたら其処に群がる者がいる
かと思うと他のところに儲け話を見つける者がいる
誰かが損をしたら脱兎の如く逃げ去る者がいる
かと思うと今が買い時とばかりに近寄ってくる者がいる
このようにベクトルが一方向に集中しないから
結果的に健全性を保つということなのだろうが
全員若しくは殆ど全員が儲かるとなったら話は別だ
ベクトルが一方向に集中してバブルが発生する
逆に、全員若しくは殆ど全員が損をすると思ったとしてもことは同じだ
ベクトルが一方向に集中してバブルが崩壊する

サブプライムローンを構築した「金融工学」なるものの大前提は
「アメリカの住宅価格は上がり続ける」というものであった
だから、借りたお金で更に高い物が買えてお金も返せる
これを繰り返せばずっと儲かるというわけだ
殆ど落語みたいな話だが、20年近く前の日本でも同じことがあった
「日本の地価は永遠に上がり続ける」という漫画みたいな土地神話だ

ちょうど放浪を終えて日本に帰ってきた頃だった
「日本ひとつでアメリカが3つ買える」「ロックフェラービルを買った」とか
猫の額みたいな土地を担保に、億を超える融資を勧誘する銀行員など
その妙に浮かれた空気には異常を通り越して狂気さえ感じていた
当時いろんな人に話をしても
「みんなが儲かっているのだからそれで良いではないか」
と笑われるだけだったことを覚えている

ポランニーは言う
もともと交易経済に市場は存在していなかった、と
そして、市場が生まれて発展する過程にあって市場に含まれないものが3つあった
貨幣と土地と労働である
「売買されるものはすべて販売のために生産されたものでなければならない」
という経験的定義によれば
貨幣は便宜で、土地は不動、労働は実態的なものだから
本来の定義に従う商品ではあり得ない
ところが、近代になってこれらも商品となって市場に組み込まれた
どのようにしてか?
フィクション(=擬制)を与えたのである
貨幣には利子が、土地には地代が、労働には賃金という擬制が与えられて
これらは初めて市場で扱われるようになったのだ

此処に於いて、市場に病理が内在することになる、と彼は指摘するのだ

市場に組み込まれるということは、投資の対象になるということだが
それは同時に投機の対象にもなるということだ
前述したように市場にモラルも理性もあるとは思えないから
(善悪の問題ではなく、単に必要ないから両方ないのだろう)
人々の生活はときに暴れる市場に振り回されることになる
そして、実際に今そうなっている

ラスベガスで擦ったお金を税金で穴埋めする
みたいな何とも理不尽で納得の行かない公的資金の注入も
(勿論、アメリカの場合、現時点ではこれしかないと思うが)
今の「自由で健全な(=身勝手で野蛮な)」市場を見ていると
それ自体が当然のことで「まだ足りない」と言っているかのようだ

これほど膨大な情報が全世界に広がるようになったネット社会では
一見多様な考え方や価値観が生まれてくるように思えるが案外そうではなく
ブランドや流行に乗せられて簡単な情報操作に犯されてしまうような
極めて脆弱な社会に成り下がる可能性が高い
「20%」の蟻ではないが、市場を揺さぶる程の力を持つものが極少数いて
それらはお互いを知ることはないがその存在は意識でき
しかも誰の意思でもなく全体で明滅を繰り返す「ホタルの木」のように
お互いの動きを総和的に把握できるとするとどうだろう
市場を通して「もっと税金を出せ」と恫喝できるということだ
ぼくは恫喝されているような感じがする

市場経済のことばかりではなく
ポランニーの洞察は鋭く、ファシズムを糾弾するところでも
宗教の取扱いの点でそのドグマの矛盾を突く
この中で展開される「精神と魂」に関する叙述は
精神も魂も一緒くたにしたような日本的な曖昧な宗教観とは程遠い
その緻密さに驚かされる
これがキリスト教の伝統なのかもしれないが、この文章を読んだとき
何故新渡戸稲造が英語で『武士道』を書かなければならなかったのかが
少し分かったような気がした

アリストテレスの話も、はじめは何のことか分からないが
読み進むうちに、彼の時代の、彼が見た「経済」がどんなものであるかを
細かく分析し正確に解き明かすことで
ぼくたちはその時代の状況に立ち会うことができる
経済学に及ばず該博な考古学的知識と人間に対する深い洞察がなかったら
(そして何より言語に対する鋭い分析能力がなかったら)
このような考察はあり得ないだろう


それにしても、
フィクションを経済学的な訳として「擬制」としているが
普通に訳すと「空想」や「架空」になる訳で
そう考えると現在の状況は空恐ろしいものがある
市場に組み込まれた幻想の上でぼくたちは振り回されているということか

posted:susumu271008

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