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◆ルーブルとパリの日々

車内で知り合った彼女と映画の話をしているうちにバスは早朝のパリに着いた。
何となく歩いているうちに目標のユースホステルは見つかったけど満室。
地下鉄を乗り継いでレパブリック広場の近くにあるユースに泊まることにした。
チェックインは午後一時だからまだ時間が結構ある。荷物を預けてぼくは街に出た。

ノートルダム寺院に行ってみた。薔薇窓とフライング・バットレスの
なんだか甲殻類を思わせるその姿に感興を覚え、
その足でポンピドーセンターとフォーラム・デ・アールを見たけど
昨夜寝てなかったこともあってあまり集中できなかった。
ユースに帰ってみると、フロントはバックパッカーでごった返していた。
ドミトリーで一緒になる連中と軽く挨拶を交わしてぼくは寝た。
翌日の朝食は、イギリスでのとは全然違っていた。
バケット三分の一個に紅茶がお椀に一杯、
それにバターとジャムという極シンプルなものだったけど、
さすがはフランス、本場のバケットは外も中も絶妙に美味く、以後クセになった。

扨、この日は一日中ルーブル美術館。
香港のジャンとイギリスのパティと一緒に出かけて中で別れた。
サモトラケのニケの翼に始まり、初めて観る「モナ・リザ」に群がる人の多さに驚き、
「ミロのビーナス」の動的肢体の美しさに感動し、ハムラビ法典をこの目で眺め、
ダヴィッドだ、ドラクロアだ、アングルだ、ラファエロだ、ルーベンスだと
何だかんだで古今東西の絵画彫刻工芸作品の名作のオンパレード。
心も体もクタクタになってユースに帰り、
ジャンやパティと少しお喋りをしてからベッドに入った。

「モナ・リザ」の完成度にはやはり感動したし「アンナと聖母子」も良かった。
パリで本物の美術に触れる喜びは確かにあった。でも何かが足りない気がした。

パリにいる間にいろんな場所に行った。
モンマルトルの丘にカルチェ・ラタン、リュクサンブール公園にデカルトやパスカルの家、
勿論凱旋門もエッフェル塔も見た。
でも、それらは総てが薄い記憶で、ルーブルもそうだったけど、
世界中から集まる観光客に紛れてただ表面だけを眺めているに過ぎないような
なんだか落ち着きのない気分が心の底にあった。
疎外感みたいなものだろうか。何処に行っても人人人、
それも観光客ばかりでフランス語という言葉の問題もあるかもしれない。
ある日、黒澤明の『乱』の看板を見つけて急に観たくなり入ろうとしたら、
映画館の受付の女の子が珍しく英語で
「この映画はフランス語の吹き替えよ。大丈夫?」と言った。
フランスという国は外来語の野放図な侵入を規制していたこともあるけど
当時は、欧米諸国で外国の映画を字幕で観るという習慣は殆どなかったと思う。

場所が変われば言語も文化も変わる。当り前のことだ。
でも、北欧からイギリスまでは逆に当り前のように英語が通じた。
今は、ドーバーを挟んでお隣の国なのに分かっていても英語では答えない。
まだイギリスとフランスがトンネルで繋がっていない時代の話だ。
極大雑把に言えば、イギリス人は社交的だけど心を開くことは少なく、
フランス人は排他的だけど親密になると深い。
ほんとに不思議なくらい正反対だ。その違和感に同調しているのかな。

でも、心許無い気分はそんなことではないだろう。
ナショナル・ギャラリーの第7号室で感じたような
しっかりとものと対峙していない自分自身への苛立ちではないか。
何かを見ているようで、その実何も見ていないのではないか。

ある日、それはとても感動的な形でやって来た。
ノートルダムの近くを歩いていたら突然目に飛び込んできたのだ。
奇妙な風景だった。
ポン・ヌフ橋が白い布で覆われているのだ。すっぽりと。
最初は改修工事が始まったのかとも思ったが、外灯も含めきちんと梱包されているし、
オレンジ色のツナギを着た作業員のような人も規則正しく配置されている。
クリストのインスタレーションだった!
こんなところでやっているとは全く知らなかった。
美術雑誌などで彼の作品の写真やドローイングは見知っていたけど
この目で観るのは初めてだった。
それがこんなに存在感のあるものだとは思わなかった。
景観を一変させている。
あまりにも面白いので、いろんな角度から飽きずに殆ど半日中眺めていた。
それはもうポン・ヌフ橋でも梱包されたポン・ヌフ橋でもなかった。
全く別の存在だった。
そこだけが抜き取られたようにも見えるし、何物かにも見える。
或いはまた、何物でもないかのようにも見える。
その不確かさが実際の風景の中に溶け込んでいるのだ。
それがとても不思議で刺激的だった。

川沿いの屋台で売られていた彼のドローイングの絵葉書を数枚買って帰った。
何故だか心の中の曇りが少し晴れたような気がした。

それから、またルーブルが観たくなって行ったら
あまりの長蛇の列でとても並ぶ気になれずに諦めて
セーヌ川を渡って反対側、アンヴァリッドの横にあるロダン美術館に行った。
元々は個人の邸宅で庭も綺麗に手入れされていて人も少なく静かだった。
有名な彫刻からスケッチまで数多くの作品が展示されていた。
中でもぼくの目をひいたのは、掌に入りそうなくらい小さな、
フィギュアといってもいいような彫刻の為の習作模型だ。
それをいつもポケットに入れて、その感触やバランスを検討していたのだろう。
表面がつるつるになっているものもあってその熱い感覚が伝わってくる。

そうか、
それが観光地であるとか、言葉が通じないとか、人が多いとか
知っているとか知らないとか、そんなことはどうでもよくて
大切なのは、自分の目と心で見て感じるということなんだな。
クリストだからあのインスタレーションが素晴らしかったのではない。
素晴らしいインスタレーションを行なったのがクリストだったのだ。
ロダンのあの激烈な彫刻のためになんと多くの小さな習作があることか。

ユースには今日も世界のあちこちからバックパッカーが訪れ
知友を結んだバックパッカーが何処かへと旅立って行く。

日本ではタイガースの優勝も間近いみたいだ。

まだ背中の荷物が板につかないけれど
ぼくも初めてのパリの日々とお別れするときがきたようだ。

posted:susumu010709

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