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◆「断捨離」という言葉がどうも、、、、

最近ハウスデザイナーやインテリア関係の人が片付けの極意として
或いは人生訓として「断捨離」という言葉を口にするのをよく見かけるけど
ぼくにはその語感がどうもしっくりこない。

語感などどうでもよいなどと云うなかれ。名は体を表わすと云うではないか。
その字面や発音からは乱暴で雑なイメージしか浮かんでこないのだ。
何故そう感じてしまうのだろうか?

よく似た三文字の熟語に「序破急」「守破離」がある。
これらは物事の道というか極意を示す言葉として有名であり
共に各段階での要諦が一字に抽出されていて語感もいい。

これらの熟語を構成する漢字に注目してみよう。
三つの漢字を比較してみると
必ずひとつは他と違ったベクトル(方向)の漢字が入っているのが分かる。
「序破急」では「破」が、「守破離」では「離」がそれである。
これを試しに矢印で示してみるとこんな感じになる。
序破急=→↑→
守破離=↑↓→
前者の場合、「序」と「急」は共に速度・時間に関係するから同じ方向を、
「破」はその流れを破るので異なる方向として表現できる。
後者では、「守」と「破」は対極の行為として其々逆方向を表わし、
「離」はその二極の集合を超えた自由な方向を示している。

では、「断捨離」はどうだろう。
その意味するところは
「不要な物を断ち捨て離れて身辺を整理すること」らしい。
片付けの極意のみならず人生訓としても有効とのこと。
この説明を上記の如く矢印に置き換えてみると、
三つの漢字は共に物に対する拒絶として同じ方向を示しているから
断捨離=→→→
となる。この言葉の持つ強烈な指向性が良く分かる。

物事を修めるにはいくつかの段階がある。
まず初めは、学ぶ、倣う、習う、覚える、など基本を習得する段階。
次は、それを展開、実践、或いは否定して視野を広げる段階。
そして、習得した方法知識に拘らない飛躍の境地。
極意には必ずこの新しい境地への跳躍があるはず。それがあっての極意だろう。

でも「断捨離」という言葉はそのような過程を求めてはいないように思える。
とにかく、ひたすら捨てることを強調している感じがする。
それなら「断断断」でも「捨捨捨」でも良かったのではないだろうか。
また、「だんしゃり」という発音も印象的である。
実に「バッサリ」といった感じが出ていて情け容赦がない。

なるほど、人と物との関係を整理するのは並大抵のことではないから
案外これでこの熟語を造った人の狙いどおりなのかもしれない。
でも、、、、

たしかに「断捨離」という言葉の持つ強い語感で物を捨てれば、
身の周りは片付くでしょう。
というよりドラスティックに方が付いてしまうだろう。
でも、それで本当に納得のできる片付けができるのだろうか。
きちんと物とのお別れができるのだろうか。

人と物との関係はもう少し深くデリケートなものだとぼくは思う。
恐らく、物に人格を見たり強い執着心を抱くのは人間だけではないか。
見方を換えれば、その拘りが人間の個性に繋がっているとも言える訳で
ファッションや化粧、装身具もまた同じである。
だとすると、「捨てる」ばかりではなく
「捨てない」ことや「拾う」ことも含めた人と物との関係を見出さないと
場合によっては、心に大きな傷を負うことになるのではないだろうか。
「断捨離」という言葉があまりにも強く厳しい語感を持っているだけに
ふと気になった次第である。

posted:susumu090512

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