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◆親父の背中

破天荒なひとだった

言葉使いは『河内のおっさん』そのまんま
自分の父親に対しても「ワレ、オマエ」の
どうしようもなくガラの悪い親父だった

母親が病弱で家はど貧乏だったけど
才知も根性も頓知も人一倍あった
悪い奴らをいじめては
文房具や小遣いなどをせしめていたらしい

小学校を出て直ぐに丁稚奉公
18歳で材木屋として独立

それからまもなく21歳で戦争に徴られて
スマトラの北の端の
まだその向こうのニコバル諸島まで行った

敗戦後、帰国してまもなく
他村の娘に懸想して
長男であるにも拘らず
自分の家のことは放ったらかしで
女の家に入り浸り
聞けば「足の白さにムラムラッときたんや」とか
田植えや稲刈りまで手伝って
やがて結婚する

一男もうけるも
祖父と上手く行かず結局離婚

子連れになった親父は
64回見合いしてボクの母を娶る

ボクにはそんな姿はこれっぽっちも見せなかったけど
随分と苦労したらしい
後年、田中角栄の列島改造論の好景気に乗っかって
多少裕福になり
晩年は
母が心筋梗塞で急逝するまで
こちらが恥ずかしくなるくらい
仲が良かった
何処に行くのも一緒だった
「若いときに苦労をかけたから」が口癖だった

母の葬式の日
喪主であるはずの親父は一度も人前に出ることはなく
「親を送るのは子の務めや。お前らが全部やれ」
といって、離れでひたすら酒を呑んでいた

誰も近寄れなかった

その後、話の上手かった親父が
声を喉頭ガンで失い
目に黴菌が入って右目を失い
母が逝って5年目の春に
病院のベッドでただひとり
他界した

ボクは気性の激しい親父と一緒にいても
三日もすれば直ぐケンカになるので
何でもできる独立自尊の人だからと勝手に割切り
最後まで一緒に暮らすことはなかった
今は痛く後悔している

追い越せなかった親父の背中が
いまもごつく熱い

補記:
5月8日は父の命日
以前mixi(2007/7/6)に載せた文章を加筆修正して此処に掲載した
そうか、あれは父が教えてくれたのかもしれないなあ

posted:susumu100512

コメント

尊父への追慕の思いが伝わってきました。私も一度だけ森田の家で姿をお見かけしました。言葉を交わしたか記憶にはありませんが、私の亡父への態度とよく似ていたので驚きました。男はフロイトの説くエディプスコンプレックを皆が持っているのかも知れません。
最近エネルギー不滅の法則が生命にも適応されのか?考えています。
人間の死後その生命エネルギー(表現が適切かはさておき)は何に変換されるのか?

posted: 今西
May 12, 2012 05:31 AM

心に響くいいコラムでした。

成長した子供に親が一番想うことって何だと思います?
それは
『子供には迷惑をかけたくない』ってことなんです。
自分(親)が子供の仕事や時間や生活を
おびやかすような存在になりたくない、ってことなんです。
自分の為に子供が疲弊するのは辛いことなんです。
お父様は最後までそれを貫かれました。

誠に『男前な最後』だったと私は思います。

だからICARUSさんは後悔などしなくていいのです。
お父様は『そんなこと気にするな!』と
豪快に笑っておられるような気がします。

そんな日に起こった?出来事は
案外大きな転機になったりするものです。

posted: pukupuku
May 23, 2012 01:14 AM




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