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◆「霊能者」という言葉の怪

マインド・コントロールだ洗脳だと世間を賑わした記事の中で
「自称」も何も付かない「霊能者」という名称が
ごく当り前に使われていることがあり強い違和感をもった
これこそマインド・コントロールではないのだろうか

「自称霊能者」と「霊能者」は、その意味が明らかに異なる
「自称霊能者」は、自分が「霊能者」だと言っている(変な)人だけど
「霊能者」は、「霊能者」としての人格的存在を暗に肯定してしまっている

これはまずい

霊、霊能というものは客観的に説明できるものはないし
定義も定かではない いろんな考えがあっていいと思う
でも、にもかかわらず「霊能者」と言い切ってしまうと
これは目には見えない不可思議な力を背景に持つ者として
その人物を無意識のうちに神秘のベールに包んで神格化してしまうことになる
人によってはそれだけで何か不思議な威圧感を抱いてしまうかもしれない
当事者はそれを狙って自分を「霊能者」と云うかもしれないけど
その意図に第三者であるメディアが加担してはいけない
多少面倒でも端折らず正しく「自称霊能者」と書くべきだろう

これは、霊の存在を信じる信じないの話ではない
例えば、霊媒師や潮来などはその役割がはっきりしている
彼らは媒介者としての存在である
また、幽霊や妖怪も人間の知らない世界を意識想像するためには欠かせない
そして、彼らはその存在の有無はともかく人間ではない
でも「霊能者」は違う これは人間なのだ
ここが恐い
注意しなければならないところだと思う

幽霊曰く、人間がいちばん恐いとか、、、

posted:susumu180412

コメント

日蓮は霊能者並びに今言う超能力について唱法華題目抄で以下のように述べています。(今西現代語訳)
ただ仏の遺言のごとくひたすらに権経(法華経に対するかりの教え)を弘めて実経(法華教)を最後まで広めない人師は、権経への深い習慣からか?実経に入門しない者は、或は魔(信仰を妨げる障害)に騙されている姿なのだろうか?ただし法門(文献・論理・倫理等の論拠による対話)にもとずいて権経と実教の邪正を糺していくべきである。利根と通力(超能力)を用いるべきでは無い。文応元年太歳庚申五月二十八日日 蓮 花 押 鎌倉名越に於て著す。

巷間流布する日蓮像は「排他的独善的原理主義者」のように流布していますが、真実の姿は信仰者や権力者達と対話を通して文献や(仏典の根拠)論理を尽くして法論しました。もし智者に日蓮の大義が破られるならば、二度とその大義をもちいないとの潔い態度を終世貫き通しました。

posted: 今西
May 3, 2012 07:20 PM




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